世界遺産の広報職員が教える京都 番外編「北嶺千日回峰行大行満大阿闍梨 酒井雄哉師を偲んで」
本日の朝刊の紙面を賑わせていましたので、ご存知の方も多いと思いますが、比叡山延暦寺の究極の荒行である「二千日回峰行」を満行された「北嶺回峰行大行満大阿闍梨 酒井雄哉」(ほくれいかいほうぎょうだいぎょうまんだいあじゃり さかいゆうさい)師が、昨日の午後ご遷化されました。 87歳でした。
私が初めて撮らせていただいた酒井阿闍梨さまのお写真です
仕事とは別に、個人的に1枚撮らせていただきました。
酒井阿闍梨さまは太平洋戦争時に、予科練に入隊し特攻隊へ。
敵艦への特攻を目前に終戦を迎え、「死」を覚悟しながら戦友と共に死ぬことができなかった、いわゆる「特攻くずれ」として、終戦後荒んだ人生を歩まれました。
その後、大坂で商売をするも失敗し、遂には奥様が「自殺」をされるという人生最悪に時期を迎えられます。
思い余って大阪から歩いて旅立ち、辿りついた比叡山で、そのまま弟子入りを志願され得度。小僧生活をへて40歳で「千日回峰行」へ入行されます。
私も39歳でお山にご縁をいただいて、行者さんたちの「修行」のお手伝いをさせていただいたりしていますが、リアルにその修行の「キツ」さを見ている私には、40歳からの「回峰行」入行なんて考えもできません。本当に「自殺行為」だと思います。40歳の体力と気力では、とてもとても成し遂げることはできないです。
しかし酒井阿闍梨さまは、それを2度も満行されました。しかも1度目は住職になるために、学校に通いながら満行されたそうです。
その行にかける信念たるや、「凄まじい」以外に言葉が浮かびません。
私は酒井阿闍梨をかねてより「二千日回峰行」の本を読んで知ってはいましたが、お山では見かけることも無く「やっぱり生き仏さんとは中々会えないなぁ」と残念に思っていました。
そんな時、当時の上司から「話はしてあるから顔写真を撮ってきて」と依頼されました。
緊張しながら阿闍梨さんの住まわれる飯室谷(いむろだに)の長寿院(ちょうじゅいん)に向かい、玄関を叩くと、上司が時間を勘違いしていたらしく、まだお休み中に伺ってしまったらしいです。
身の回りのお世話をする信者さんに、散々「イヤミ」を言われましたが、酒井阿闍梨さまは快く「構わないから上がっておいで」と優しく声をかけてくださいました。
私としましては「やってしまった」気持ちで「いっぱいいっぱい」に「テンパって」しまっていましたが、「すまんな~すぐに着替えるからちょっと待っといておくれ」と、上方落語の噺家のようなテンポで話しながらお茶を入れて下さいました。
そのお茶が絶妙に美味しかったのを今だに覚えています。その一杯で一気に緊張が解きほぐれました。
お着替えされている阿闍梨さまは、背丈こそは小さいが、その下半身のしっかりしていること!
特にあの「ぶりっとしたお尻」の大きさは忘れられません。地球2周分を踏破した方の「お尻」はやっぱり常人とはぜんぜん違います。
阿闍梨さまはお着替えされながらも、待っている私に気を使われて、色々なお話をしてくださいました。
その慈愛あふれるお話を直接お聞きすることができ、本当に夢のような時間でした。
結局その日は「テンパって」しまった上に、舞い上がってしまったため、撮った写真は思いっきりグダグダで、ひと目見るなり「ボツ」にされてしまいました。
上の写真でわかるように、下に召されているシャツが見えていることもわからないくらい緊張していました(^_^;)
帰り際には、せっかく来たのに「手ぶらで帰ってはイカン!」と、お土産まで持たせてくださりました。
その時に頂戴した阿闍梨さまの著書です。私の目の前でサインを書いてくださいました。私の宝物です。
たった一度だけの経験でしたが、本当に仏様に抱かれているような安心感に包まれた、幸せな時間を過ごさせていただきました。
あれから2年、何とか「ボツ」にはならないような写真を撮れるようにはなりました。しかしもう阿闍梨さまのお写真を撮れないのは少し寂しい気がします。
これからも、阿闍梨さまの愛した「比叡山延暦寺」の記録を許される限り撮り続けて行きたいです。
波乱万丈な今世を送られましたが、来世はゆっくりとした一生をお過ごしになられる事をお祈りします。