世界遺産の広報職員が教える京都「本当に癒されるパワースポットその⑥三角結界と桓武天皇の将軍塚」

この度の、台風18号上陸により被害にあわれた方々に、心からお見舞い申し上げます。

 

 今回の台風上陸では、京都市内において、あれほどの水害にも関わらず、只の一人の命も失われませんでした。

 この件に対し、行政及び、夜通し警戒に当たられた警察官の方々、並びに関係各所の皆さま方の使命感に溢れたご尽力に、心から感謝申しあげます。

 

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41年間の人生のなかで、氾濫寸前の鴨川を始めて目の当たりにしました。

 

 

 さて、話を本題に。

 台風が上陸する前々日、私は休みだったので、午前中の気温の上がり方に少々暑さが気になりながらも、取りあえずチャリンコに乗って家を飛び出しました。

 

 最初に向かったのは、前回の「京都三大大社の三角結界」の時に出てきた、平安京の「中心部」であり、最も重要な施設「大極殿」(だいごくでん)跡地。現在は千本丸太町の交差点からすぐ北西にある公園内に石碑があり、そのすぐ前方には、近辺の復元予想画が描かれていました。

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当時の栄華の面影は一切無く、物静かに石碑だけが歴史を物語っていました。

 

 

 その後上昇する気温に反し、私は京都市東山区の東山山頂にある「将軍塚」へと向かいました。

 

 

 この将軍塚は、桓武天皇が平安京の造営時、都を鎮める王城鎮護(おうじょうちんご)のため、八尺(約2.5m)の土を焼き上げ、初代将軍(当時は、東北地方の朝廷に従わない勢力を征伐する軍隊の幕僚長)「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)をモチーフした陶質でできた将軍像を作り、その像に鉄の甲冑を着せ、鉄の弓矢を持たせ、太刀を佩かせて都のある西方に向けて埋めた所だと伝わる場所です。

 

 場所は、京都市東山区粟田口の東山山頂で、標高215m。ふもとには「青蓮院」(しょうれんいん)や「知恩院」(ちおんいん)があり、現在は天台宗の寺院「青蓮院」の飛び地境内に中にあります。

 

 この将軍塚へ行くには、自動車で行くか、徒歩で自動車道または東海自然道を登るしかありません。また、公共機関も乗り入れておりませんので、マイカーの方以外は、タクシーで行くしか方法はありません。自動車なら蹴上または東山五条から東山ドライブウエイ(無料です)へ入ると、ほぼ頂上部にある山頂公園に駐車場があり、その奥に進むと青蓮院別院「大日堂」の境内地があります。

 

 なぜ、わざわざこんな不便な場所へ? と思いますよね。

 

 最近の運動不足解消のための「チャリンコトレーニング」と言いたいところなんですが…(^_^;)

 

まっ、それも兼ねておりますが、前回までの「三角結界」にこの将軍塚も重要な関係があるからなのです。

 そのために、重い撮影機材を背負い、東山ドライブウェイをチャリンコで30分かけてひた登りました。

 

という訳で、今回の「本物のパワースポット巡り」第5弾は

「三角結界の補足」と題し、

なぜ桓武天皇「将軍塚」をこの地に選んだのか?

をお話したいと思います。

 

 しばらく、恒例のウンチクが始まりますので、興味の無い方は、この部分を飛ばしていただいても結構ですよ。

(^ ^)

 

 この「青蓮院」は、正式な名称を「青蓮院門跡」(しょうれんいんもんぜき)といい、天台宗の総本山比叡山延暦寺に次ぐ最高位の寺院「五箇室門跡」(ごかむろもんぜき)の中でも特に格式の高い「三門跡」の一つです。

 また、現在の天台宗門跡寺院の中でも唯一住職である「門主」(もんす)が「世襲」により引き継がれている寺院です。ちなみに先代のご門主の「東伏見慈洽」(ひがしふしみじこう)大僧正は、今上天皇と「いとこ」の関係です。

 

 この青蓮院については、天台寺院であり私の専門分野なので、機会を伺ってまた詳しく紹介したいと思います。

 

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東山ドライブウエイの山頂、将軍塚のとなりにある展望台から京都を望む

 

 一般的にこの将軍塚が造立された理由としては、桓武天皇が都を平城京(奈良)から京都の南部の乙訓(長岡京)へ移す造営中、次々と災難が起きたからだそうです。

 

、天皇の血縁に近い親族のあいだに不幸が続いたり、さらに伊勢神宮の正殿などが盗賊に放火され、また、畿内に疫病が蔓延し多くの人々が亡くなるなどの異変が起こったそうで、桓武天皇はこのままこの地で都の造営を続けるべきか?と非常に悩んでおられたそうです。

 

 その気持ちを察した重臣「和気清麻呂」(わけのきよまろ)は、狩を口実に天皇をこの東山山頂(現在の将軍塚)に誘い、山背(京都)盆地を見下ろしながら、新しい都はここに定めるのがよいと進言しました。

 天皇は、下界をご覧になって、この盆地は周囲三方が山に囲まれていて、大きな川(加茂川や桂川、宇治川)も流れている。それを城壁やお堀とみなし、都を造るには最適と考えられ『此の国、山河襟帯、自然に城を作(な)す、この形勝により・・・(中略)山背国を改め、山城国となすべし』都を定める決心を伝え、延暦13年(794)平安京造営に始められたと云われています。

 

 

 ウンチクを飛ばした方は、ここからお読みください。

 

 

 と、この内容が教科書や歴史書に載っている代表な「将軍塚」がこの地に置かれたゆかりなのですが、私にはどうもそれ以上の「パワー」を期待して、桓武天皇が、この地に「将軍塚」を造立したとしか思えません。なぜなら別にこの地に「塚」を置かなくても、京を一望に見下ろせる地点は他にたくさんあるからです。

 

 例えば、京都在住の方ならよくわかると思いますが、「大文字山」として有名な「如意ヶ嶽」(にょいがだけ)なんて、将軍塚よりよっぽど京都全体の景色が素晴らしく良く見えます。おそらく京都を一望するに一番ふさわしい山頂で、私が平安京の「プレゼン」をするなら間違いなく「大文字山」選び進めますよ。

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3年前に大文字山に登った時の写真です。前出の「東山山頂展望台」より遥かに眺めがいいでしょう。

 

 

 そんな疑問を考えている時に、この位置関係を例の「三角結界」の地図を当てはめると、私はまた不思議な偶然を見つけてしまったのです。

 

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 図を見てもらえばお分かりの通り、この「将軍塚」は、「下鴨神社」から「伏見稲荷大社」まで引かれたライン上のちょうど中心の所に位置しています。

 

 また、京都の横の中心ラインの「四条通り」を通り、まっすぐ「松尾大社」まで繋がっているのもお分かりになるでしょうか?

 

 はたまたこれも偶然の一致なのでしょうか?

 

 私には、そのうちお話しますが、もう一つ偶然とは思えない「結界のライン」の存在を既に確認しています。そんなことから考えると、これはもう意図的に造られた平安京を鎮護する「結界」としか他に言いようがないと思います。

 

 私の想像では、桓武天皇は「四神相応」で王城鎮護すると共に、この京都の二大豪族である「秦氏」と「賀茂氏」が張り巡らした「三角結界」。そのまた上に、今度は、天下の怪僧「道鏡禅師」より「天皇」の「万系一世」を身を呈し護った「和気氏」の結界まで駆使し、都の平安を祈ったのではないでしょうか?

 

 ちなみに、「和気清麻呂」が宇佐八幡より受けた「神託」は実は二つあり、一つは有名な「臣下(道鏡)を天皇に即位させてはならない」と、あともう一つは「朝廷を必ず護り続けなさい」という神託だったと云われています。

 それを考えても、「清麻呂」が既にある「三角結界」の一地点に「将軍塚」を創ったとしても不思議ではないですよね。

 

 

 まぁそれにしても本当に京都は、徹底的に計算され尽くして造営された平安の都だと思いますね。何気ない山頂にまで「パワースポット」が仕掛けられていますからねぇ。

 

 ちなみに炎天下の中、将軍塚の写真を撮ろうとチャリンコで死ぬ思いで登った結果は…

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 庭園整備で1年間の閉園となっていました( ̄◇ ̄;)

皆さんに「将軍塚」の画像をお届けできなかったのが誠に残念です。