世界遺産の広報職員が教える京都「本当に癒されるパワースポットその⑨仏の結界~伏見区の意外な真実前篇~」

さて、本当に癒される京都のパワースポット研究「仏の結界」編も3回目を迎えます。

 私は学生時代から日本史を専門に学んでいましたので、京都の歴史的な建造物を始め、この「神護寺」や「延暦寺」が平安京に対し、何らかの宗教的なパワーを与えていると、なんとなく漠然とした考えては持っていました。

 

 でも、まさか仏さまのお力をお借りすることで、平安京に「仏の結界」を張っている所までは、正直考えたこともなかったですね。

 

f:id:carrera1517:20130927153640j:plain

京都の鬼門を完璧に護る比叡山の全景

 

 しかし、京都を治めた二大豪族と朝廷が、それぞれの産土神のお力を借りて張り巡らせた「三大大社の結界」を発見したことにより、当時新進気鋭の集団最澄さまや空海さんを含む「平安新仏教」の一団が、私が気付く程度のことを気づかないはずがないとも思い始めたんです。

 

 平安京造営当時なら、ある程度の情報もダダ漏れていることでしょうし、別に「風水」や「結界」により護られた都であることを、そこまで隠す必要も無かった事でしょう。逆にこの「からくり」は、みんながわかっていることだから、記録に残すことを忘れてしまい、いつしか人々に忘れ去られてしまったんだと思いますよね。

 

 何より、当時の日本を代表するような天才頭脳集団、私より何百倍も頭の良い人たちが、このからくりに気づかない訳がないでしょうし、そうなると、もちろん彼らは次の一手を打ってきますよね。

 

 

 そこで、どういった行動をおこしたか?

 

 

 そう、斬新かつあらたな切り口で「仏の結界」創り、当時日本の絶対権力であった「天皇」を取り込んでしまおうと考えたんだと思いますね。

 

f:id:carrera1517:20120508123711j:plain

「仏の結界」を形成する三角形の3つある頂点の一つ、比叡山延暦寺の「根本中堂」

 

 

そのためには一体どうすれば良いのか?

 

答えは簡単。

 

 仏の名のもとに人工的な「結界」を張ることで、平安京の「王城鎮護」天皇の「玉体安穏」、そして皇統の「万代繁栄」を保証するという約束をすればいいのですよ。(^-^)

 

 なんといっても当時「風水」や「仏教」という学問は、「世界の中心」であった「中国」から伝わった「最先端の科学」なんです。

 その最先端の科学を、日本有数の天才たちが使いこなすことで、日本一のお金持ちを「スポンサー」に付け、仏の大伽藍を次々を創建し「結界」を張る。

 畏れ多い話ですが、私が「天皇」でも、「早良親王」の「怨霊」怯えている時に、先に挙げた3つの「祈願」を叶えてくれるというなら、惜しみなくお金を使うだろうと思います。

 

 そしてこの平安新仏教集団は、その3つの「祈願」をかなえる事との引き換えに、自らの新しい仏教宗派の隆正と繁栄を約束してもらう。

 具体的に言うと、つまり「戒壇」の設立の勅(ちょく・天皇の許可)を賜ることなんですね。

 

 平安時代の初期当時の仏教、お坊さんの世界は国家試験を受けてやっと「授戒得度」(とくどじゅかい・お坊さんになるための約束事を守りますと、仏さまに誓う儀式のこと)できるという「国家公務員」だったんです。つまり、お給料は国からもらえる訳なんです。

 

f:id:carrera1517:20130923134130j:plain

「仏の結界」三角形のもう一つの頂点である「神護寺」。境内には昭和の名作「金堂」(写真上)を始め、「結界」の発案者であろう「和気清麻呂」の墓所があり、静かに、また「満世」にわたり京を見護っている。

 

 

 しかし当時、その権利を持っているのは奈良の旧仏教南都六宗だけだったんですね。ちなみに、授戒できるのは奈良の東大寺を始め、日本で3ヶ所。しかも戒和上5名の同意を取り付けないと成り立たないという、非常にややこしい決まりがあった訳なんです。

 

 私は、そう言った「南都六宗」のみが持つ「巨大な利権」に立ち向かうため、最澄さま、空海さんを中心とした平安新仏教集団が「仏の結界」の創作の実施へと奔走されたと思うのです。

 

 結局、この天才二人を中心にして「仏の結界」は完成を迎えます。

 

 そしてお二人の死後、(空海さんは亡くなられたことにはなってないですが)平安仏教側は「戒壇院の設立の勅」を賜るといった終生の悲願が叶い、「皇室」側は、その結界の法力の恩恵を今だに受け継ぐといった「ウィン・ウィン」の関係を保った訳なんですね。

 

 めでたしめでたし!(^_-)

 

 

 って、非常に前置きが長くなりました。(>_<)

 

 前回までで、「神護寺」から「延暦寺」までの「仏の結界」の北方を護るラインは紹介しましたが、それだけでは「平安京」を護る結界としては、中途半端ですよね。結界なんですから、やはり何らかの「印」を結んでないといけない。

 

 このブログで、「パワースポット研究」とうたっている以上は、キチンと事実を検証し、根拠となるものを示していかなければ、「スピリチュアル」を取り上げた某雑誌と何ら変わらなくなってしましますしね。(^_^;)

 

 

 私は、「神護寺」と「延暦寺」までの北方ラインを見つけたとき、先程述べた理由から平安京造営時の「三大大社の三角結界」を模倣した「仏の三角結界」が必ず存在すると直感しました。

 英語でひらめきの事を「Inspirare」(インスパイア)と言いますが、これは「神様が、人の頭に知恵を吹き込む」という意味があるそうです。

 その時私は、まさしく「インスパイア」されたのかもしれませんね。

 

 必ず、「神護寺延暦寺を結んだ線を含んだ「三角形」を形成する地点があり、そこには平安時代前期に京都の南部を代表するようなランドマークがあるはず」と思い、グーグル地図をしばらく眺めていました。

 

 

 その地点は、「神護寺」と「延暦寺」を結んだラインを三角形の一辺として、三角形を形成するのに必要なもう2つの「辺」を見つけ、そして「神護寺」と「延暦寺」の各お寺を始点とし、そこからそれぞれのラインを伸ばしていき、そのラインがぶつかる場所なんです。

 まぁ文で説明するのも面倒なんで、下の図を見て下さい

 

 

f:id:carrera1517:20131007110325j:plain

「仏の結界」を司る見事な三角形。

神護寺延暦寺それぞれから出発したラインは京都市伏見区のある地点で交差する。

 

 

 が、期待とは裏腹に、その地点には大きな寺院は無く、ごく小さな鎌倉新仏教の寺院が何軒も一か所に集まっているだけでした。

 

 「残念やなぁ」(T_T)と思い、何気なくその地点を拡大してみると、その小さな寺院が集まる地域の、住所が一つの町内の中にすべてスッポリとはまり込んでしまうことに気付いたのです。

 

 

 

 その町名は伏見区深草「極楽寺町」

 

f:id:carrera1517:20131006144546j:plain

 

 いくら地図を調べても「極楽寺」なんて一切出てこないのに「極楽寺町」?

 

 その極楽寺町の名前の由来を調べた結果、この「仏の結界」には、私が考えている「結界」の成り立ちより、更に一つ上のレベルの「大きな力」が働いていることに気付かされたのです。

 

 

 その大きな力とは藤原北家」(摂関家)の存在なんです。

 

 

 この三角形を形成する残りの2つの「辺」が重なる場所には、私が思っていた通り、平安時代に清和天皇を始め4帝にわたり朝廷の実験を握り、権力を欲しいままにした「藤原基経」(ふじわらもとつね)が誓願したと伝わる「極楽寺」の大伽藍(だいがらん)が、かつて建立されていたのです。

 

 さすがは「平安新仏教集団」の頭脳!抜け目が無い。

 

 はたまた「藤原北家」の方が、「結界」の力で絶対的な権力を得るために、自ら「スポンサー」をかって出たのか。

 理由は分かりませんが、両方ともの理由が正解なんでしょう

 さすがに私も「藤原北家」が絡んでくるとは思いもよりませんでしたが。

 

 今は人影も疎らなこの地に、「極楽寺」が建立されたゆえん等については、これから今回のブログにまとめるのには、かなりの長文となることが予想されますので、次回にまた詳しくお話ししたいと思います。

 

 とにかくこの地は、現在の閑静な住宅地とは思いもよらぬ京都の重要スポットだった訳です。

 

 中途半端になってスイマセン! m(__)m