世界遺産の広報職員が教える京都「本当に癒されるパワースポットその⑦「仏の結界と神護寺」

 さて、「京都のパワースポット研究」も平安京造営に至るまでの「結界」の創作で、私の考えは一通り話させていただきましたので、今回からは、平安京に遷都された後、京の都の「王城鎮護」をより一層確固たるものにするため施された「新たな結界」を紹介していきたいと思います。

 

 

 平安京を造立するに当たって桓武天皇は、先史より山背の地に鎮座される2大豪族の産土神の持つ「パワー」に「将軍塚パワー」を付加させ、「山背」を「山城の地」と名前を変えてしまうことで、

都に「三大大社の三角結界」

を張り巡らし、悪しき「気」を祓うことで都の平安を祈るシステムを構築されたことは、前回まででお話をさせていただいた通りですが、これらの手法は、都を造営するに当たっての前処置のようなものだったと私は考えるんです。

 

 私の考えでは、桓武天皇は平安京への遷都後、次なる手段を用いて都の今後の安定と永遠の王城鎮護を望むことになります。

 

 そのための手段となったのが、当時の「新興勢力」である「仏教の集団」の活用でした。

 

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神護寺の本堂である「金堂」

ご本尊の「薬師如来」さまは国宝で、拝観料は大人500円子供200円です。

 

 

 

 そこで今回からの

「本当に癒されるパワースポット研究」

 

「京を護る仏の結界」

と題して、第一回は「高雄山神護寺(たかおさんじんごじ)のお話をしていきたいと思います。

 

 京都を護るお寺と言えば、京の「鬼門」を護る「延暦寺」(えんりゃくじ)やろうがワレ! ( *`ω´)プンプン

 

 と、おっしゃる方も多いでしょうが、もちろんその通りですし、私ほどの「お山大好き人間」が延暦寺を第1回目に取り上げないのはおかしいですよね。

 

 しかも「神護寺」は現在、延暦寺を開創された伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)さまの双璧のライバルと云われる弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)さんの開宗された「真言宗」(しんごんしゅう)に所属する真言寺院のうえ、最愛の弟子「泰範」(たいはん)を取られた場所だったりと、延暦寺を開かれた最澄さまにとっては、とかく因縁の場所ときたもんなんですね。

 

 しかし悲しいことに、物事には順序というものがあるんですね。

よって、まずはこの「神護寺」を抑えとかないと色々これからの説明も難しくなってしまうんです。

 

 だから第1回目はバリバリの「天台宗徒」の私が、涙を飲み「真言宗遺迹本山神護寺」(しんごんしゅうゆいせきほんざんじんごじ・空海さんと特にご縁の深い寺院を遺迹と呼ぶらしい)が「パワースポット」たるゆえんを紹介していきたいと思います。

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神護寺の山門へと続く石段の入口 

 

 神護寺は京都市右京区愛宕山の麓、清滝川の流れる「京の奥座敷」つまり山奥にありますので、マイカーか「JRバス」でしか行くことができません。

 

 しかしバスで行かれる場合でも、京都駅より午前7時から午後8時近くまで、一時間に2本ほど運行しておりますので、よっぽどの時間に行かない限りはまず安心です。バス停は「山城高雄」でも、もう2つ先の「栂の尾」(つがのお)でも下車後約10分ぐらいで山門へと続く石段に辿り着くことができますが、私のお勧めは坂道が若干緩い「栂の尾」のバス停です。

 

 マイカーの場合は、国道162を「神護寺前」道路標識から小道に入り、「清滝川」のすぐそばまで下りてくると、各旅館が営む「駐車場」が結構あります。料金は本日は「1日500円」でしたが、「紅葉」のシーズンになるともっとボルかもしれませんね。

 

 近くに市営の「高山寺無料駐車場」がありますが、そこから石段の入口までは歩いて約15分ほどかかります。15分間を500円で買うのもありですが、清滝川沿いの道沿いを歩くのはとても涼しくて気持ち良いですよ。参考にしてください。

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 石段を15分ほど登ると勇壮な「山門」が姿を現します。

よく他のブログ等で「急な石段」と表現されていますが、しんどいのは最初の急な階段だけなので安心してください。2回曲がり角を折れると「山門」は見えますよ(^O^)

ただし、かかとの高い「ヒール」などは厳禁です

 

 

 ここからウンチクが始まります。

 

 さて、「神護寺」が開かれたゆえんですが、歴史の教科書を読んでいると、平安京に都の遷都を勧めた「和気清麻呂」は、世に云う「宇佐八幡の神託事件」で、「道鏡」の天皇即位を知り退ける「神託」を「八幡大神」より賜りましたが、

 実はもう一つ、「一切経(いっさいきょう・全てのお経)を書写し、仏像を造立して寺を建て、万世にいたるまでの国家の安定を祈りなさい」という神託をも賜ったと云われています。

 

 その「神託」を実践するため「清麻呂」は、「神願寺」(じんがんじ)を建立します(場所ははっきりとわかってはいません)。そしてその長男である「和家弘世」(わけのひろよ)も父の意思を受け継ぎ、都の西北に「高雄山寺」(たかおさんじ)を開基します。

 

 この「高雄山寺」の場所もよくわかっていないのですが、開祖である父の「清麻呂公」の墓所が神護寺の中にあるので、「高雄山寺」は今の「神護寺」ではなかったのではないかと云われていますし、「神護寺」のパンフレットには、「高雄山寺」は「神護寺」であると、はっきり書かれています。

 

「弘世」は、亡き父に「宇佐八幡」の神託を託した伯母の「和家広虫」(わけのひろむし・本来は広虫が出向く予定だったが、健康の不調を理由に弟の清麻呂に譲ったと云われる)の三回忌に「高雄山寺」において「法華経」の講経論義を執り行いますが、それを機会に一人の天才青年僧侶が世に出現することになります。

 

 

 そのお方こそ、日本仏教の母山「比叡山延暦寺」を開山された、伝教大師最澄」さまです。

 

 

 そこからトントン拍子に出世街道をひた走り、国費で「唐へ留学」された最澄さまは、当時私費で「唐への留学」を果たした弘法大師「空海」さんの類まれな才能を見出し、空海さんが「唐」の留学から日本へ帰ってきた後、ちゃんと生活が営めるように「和気弘世」にとりなしてあげ、この「高雄山寺」に住めるようにしてあげます。

 

 そしてこの「高雄山寺」を基点として、空海さんも日本にはなくてはならない「密教」伝播者としての道をひた走って行く訳です。

 そして822年に最澄さまが亡くなった後の824年には、この「高雄山寺」と「神願寺」を合併し、「神護寺」を真言宗のお寺とすることになります。

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五大力堂から石段と金堂を望む

 

 と、ここまでが一般的な「神護寺」開基の流れなんですが、とにかくこのお寺の凄い所は、「八幡大神」の信託で京の都を護る寺を建立した「和気清麻呂」と、仏教史上の二大巨人である「最澄」さまと「空海」さんという平安初期のビッグネーム3名が深く深く関わっているという「歴史マニア垂涎」のお寺なんですよ。

 

 しかし、これだけの「天才」が3名も揃って、こんな山奥に「全く何の意味を持たない」お寺を建立するでしょうか?

 

 ここから話の本番なので戻って来てください。

 

 

 私には、この3名が仏の力で、京に平安のパワーを与える「仏の結界」を作ろうとしたに違い無いと思いました。その足がかりとして選ばれたのが、「高雄山寺」であり「神護寺」だったと思うんです。

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いつも見えにくい地図でスイマセン(^_^;)

 

 上の京都市北部の地図を見てもらうと、高雄山の「神護寺」と比叡山の「延暦寺」の間には平安京の北部がすっぽりと収まり、

その両方を結んだラインには、「賀茂氏」の氏神で厄除けの神様「賀茂別雷大神」を祀る上賀茂神社の真上を見事に通ります。

 さらに、有名な「怨霊の神様」早良親王(さわらしんのう・桓武天皇の弟で死後に崇道天皇謚号がおくられる)を祀る「崇道神社」まで、そのラインの真下に鎮座されています。

 

 この位置関係こそ、「和気清麻呂」がこの地に「高雄山寺」を建立し、「空海」さんが住まい「遺迹本山」とした一番の理由ではないでしょうか。

 

 その証拠として、「神護寺」の「勅使門」には5本筋の線が入っております。この「定規筋」(じょうきすじ)は、皇室にゆかりの深い寺社のみ許される「筋」で、特に5本は最上級とされています。 

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神護寺書院の壁は、勅使門のみ「5本筋」で周りの壁は「3本筋」という変わった「定規筋」です

 

 本来この「定規筋」は、「御所」や「門跡寺院」などをあらわすもので、貫主が皇族でない神護寺に許されるのは非常に珍しくないですか?

 

 そして一番重要なのは、「清麻呂公」の墓所の存在です。

 

 私は、直接「清麻呂公」の墓所に参拝させていただきましたが、その場所へは、「金堂」の裏手から山の奥へ10分ほど歩かなければなりません。

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 鬱蒼とした森にひっそり佇む清麻呂公の墓所

 

 お坊さんにより掃き清めてはありましたけども、「鬱蒼とした森」の中、平安京遷都の一番の功労者であり、造営の最高責任者であった「清麻呂公」の墓所としては、適所とは口が裂けても言えないような場所に葬られておられます。

 これではあんまりですわ( ̄^ ̄)

 

 お堂や祠もなく、こんもりと土が盛られた塚に「石碑」がポツリ。

 

 これってまるで「将軍塚」やなぁ。 

 

 あっ!「将軍塚」! そこで気づいたんです。

 

 

 そうなんです将軍塚を造られた「清麻呂公」は、死して万世自らが平安京を護る「仏法の将軍塚」となられたのです。

 

 私は、おもむろにスマホの「コンパスアプリ」を起動させ、この「塚」の向いている方向を測定しました。

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枝が垣根のようになり、写真では墓石が見えにくいですが、正面は南南東の方向へと向いています(写真の下のコンパスの赤い目印は北を示しています)。

 

 「神護寺」の堂宇はその全てが南の方向を向いています。しかし「清麻呂公」の墓石だけは、南東にある京の都の方向を見つめています。これは、「将軍塚」を建てた「清麻呂公」が「八幡大神」の神託に従い、自らが平安京の鎮護を司る「将軍像」となり、神から託された「万世までの平安」を実践された遺跡ではないでしょうか。

 

 もしそうだとしたら、自らの墓所をこんな山奥に作り、その後、平安仏教の巨人の双璧である「空海」さんが「神護寺」を「真言密教」の「遺迹本山」とした理由など、全てにおいて合点がいきます。

 

 これはきっと最澄さまが、「延暦寺」と共に平安京の王城鎮護の寺とするために、その才能を見初めた空海さんを和気氏に紹介し、「神護寺」を彼に託すことによって、「延暦寺」と「神護寺」とで清麻呂公が実践しようとした「仏の結界」を創ったんではないかと思うんです。

 

 そうだとすると、「勅使門」の「定規筋」の疑問も全て解決できるのではないでしょうか。

 

 

 

 こらから、秋の「紅葉」のシーズンを迎えます。

 

 恐ろしいほどの人たちがこの地に「紅葉刈り」に訪れると思います。しかし、その内の何人がさらに山の奥まで足を伸ばし「清麻呂公」の墓所を参られるでしょうか?

 

 私が推測するに、この「清麻呂公」の墓所は、京都でも指折りの「パワースポット」に間違いないでしょう。

死して今もなお「万世にわたり平安の都」を護り続けておられると考えられるからです。

 

 みなさんが「紅葉刈り」に訪れられた際には、ぜひ「清麻呂公」の墓所まで足を運んでいただき、手を合わせて「感謝の誠」を捧げていただきたいものですね。