世界遺産の広報職員が教える京都「本当に癒されるパワースポットその⑨仏の結界~伏見区の意外な真実前篇~」

さて、本当に癒される京都のパワースポット研究「仏の結界」編も3回目を迎えます。

 私は学生時代から日本史を専門に学んでいましたので、京都の歴史的な建造物を始め、この「神護寺」や「延暦寺」が平安京に対し、何らかの宗教的なパワーを与えていると、なんとなく漠然とした考えては持っていました。

 

 でも、まさか仏さまのお力をお借りすることで、平安京に「仏の結界」を張っている所までは、正直考えたこともなかったですね。

 

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京都の鬼門を完璧に護る比叡山の全景

 

 しかし、京都を治めた二大豪族と朝廷が、それぞれの産土神のお力を借りて張り巡らせた「三大大社の結界」を発見したことにより、当時新進気鋭の集団最澄さまや空海さんを含む「平安新仏教」の一団が、私が気付く程度のことを気づかないはずがないとも思い始めたんです。

 

 平安京造営当時なら、ある程度の情報もダダ漏れていることでしょうし、別に「風水」や「結界」により護られた都であることを、そこまで隠す必要も無かった事でしょう。逆にこの「からくり」は、みんながわかっていることだから、記録に残すことを忘れてしまい、いつしか人々に忘れ去られてしまったんだと思いますよね。

 

 何より、当時の日本を代表するような天才頭脳集団、私より何百倍も頭の良い人たちが、このからくりに気づかない訳がないでしょうし、そうなると、もちろん彼らは次の一手を打ってきますよね。

 

 

 そこで、どういった行動をおこしたか?

 

 

 そう、斬新かつあらたな切り口で「仏の結界」創り、当時日本の絶対権力であった「天皇」を取り込んでしまおうと考えたんだと思いますね。

 

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「仏の結界」を形成する三角形の3つある頂点の一つ、比叡山延暦寺の「根本中堂」

 

 

そのためには一体どうすれば良いのか?

 

答えは簡単。

 

 仏の名のもとに人工的な「結界」を張ることで、平安京の「王城鎮護」天皇の「玉体安穏」、そして皇統の「万代繁栄」を保証するという約束をすればいいのですよ。(^-^)

 

 なんといっても当時「風水」や「仏教」という学問は、「世界の中心」であった「中国」から伝わった「最先端の科学」なんです。

 その最先端の科学を、日本有数の天才たちが使いこなすことで、日本一のお金持ちを「スポンサー」に付け、仏の大伽藍を次々を創建し「結界」を張る。

 畏れ多い話ですが、私が「天皇」でも、「早良親王」の「怨霊」怯えている時に、先に挙げた3つの「祈願」を叶えてくれるというなら、惜しみなくお金を使うだろうと思います。

 

 そしてこの平安新仏教集団は、その3つの「祈願」をかなえる事との引き換えに、自らの新しい仏教宗派の隆正と繁栄を約束してもらう。

 具体的に言うと、つまり「戒壇」の設立の勅(ちょく・天皇の許可)を賜ることなんですね。

 

 平安時代の初期当時の仏教、お坊さんの世界は国家試験を受けてやっと「授戒得度」(とくどじゅかい・お坊さんになるための約束事を守りますと、仏さまに誓う儀式のこと)できるという「国家公務員」だったんです。つまり、お給料は国からもらえる訳なんです。

 

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「仏の結界」三角形のもう一つの頂点である「神護寺」。境内には昭和の名作「金堂」(写真上)を始め、「結界」の発案者であろう「和気清麻呂」の墓所があり、静かに、また「満世」にわたり京を見護っている。

 

 

 しかし当時、その権利を持っているのは奈良の旧仏教南都六宗だけだったんですね。ちなみに、授戒できるのは奈良の東大寺を始め、日本で3ヶ所。しかも戒和上5名の同意を取り付けないと成り立たないという、非常にややこしい決まりがあった訳なんです。

 

 私は、そう言った「南都六宗」のみが持つ「巨大な利権」に立ち向かうため、最澄さま、空海さんを中心とした平安新仏教集団が「仏の結界」の創作の実施へと奔走されたと思うのです。

 

 結局、この天才二人を中心にして「仏の結界」は完成を迎えます。

 

 そしてお二人の死後、(空海さんは亡くなられたことにはなってないですが)平安仏教側は「戒壇院の設立の勅」を賜るといった終生の悲願が叶い、「皇室」側は、その結界の法力の恩恵を今だに受け継ぐといった「ウィン・ウィン」の関係を保った訳なんですね。

 

 めでたしめでたし!(^_-)

 

 

 って、非常に前置きが長くなりました。(>_<)

 

 前回までで、「神護寺」から「延暦寺」までの「仏の結界」の北方を護るラインは紹介しましたが、それだけでは「平安京」を護る結界としては、中途半端ですよね。結界なんですから、やはり何らかの「印」を結んでないといけない。

 

 このブログで、「パワースポット研究」とうたっている以上は、キチンと事実を検証し、根拠となるものを示していかなければ、「スピリチュアル」を取り上げた某雑誌と何ら変わらなくなってしましますしね。(^_^;)

 

 

 私は、「神護寺」と「延暦寺」までの北方ラインを見つけたとき、先程述べた理由から平安京造営時の「三大大社の三角結界」を模倣した「仏の三角結界」が必ず存在すると直感しました。

 英語でひらめきの事を「Inspirare」(インスパイア)と言いますが、これは「神様が、人の頭に知恵を吹き込む」という意味があるそうです。

 その時私は、まさしく「インスパイア」されたのかもしれませんね。

 

 必ず、「神護寺延暦寺を結んだ線を含んだ「三角形」を形成する地点があり、そこには平安時代前期に京都の南部を代表するようなランドマークがあるはず」と思い、グーグル地図をしばらく眺めていました。

 

 

 その地点は、「神護寺」と「延暦寺」を結んだラインを三角形の一辺として、三角形を形成するのに必要なもう2つの「辺」を見つけ、そして「神護寺」と「延暦寺」の各お寺を始点とし、そこからそれぞれのラインを伸ばしていき、そのラインがぶつかる場所なんです。

 まぁ文で説明するのも面倒なんで、下の図を見て下さい

 

 

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「仏の結界」を司る見事な三角形。

神護寺延暦寺それぞれから出発したラインは京都市伏見区のある地点で交差する。

 

 

 が、期待とは裏腹に、その地点には大きな寺院は無く、ごく小さな鎌倉新仏教の寺院が何軒も一か所に集まっているだけでした。

 

 「残念やなぁ」(T_T)と思い、何気なくその地点を拡大してみると、その小さな寺院が集まる地域の、住所が一つの町内の中にすべてスッポリとはまり込んでしまうことに気付いたのです。

 

 

 

 その町名は伏見区深草「極楽寺町」

 

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 いくら地図を調べても「極楽寺」なんて一切出てこないのに「極楽寺町」?

 

 その極楽寺町の名前の由来を調べた結果、この「仏の結界」には、私が考えている「結界」の成り立ちより、更に一つ上のレベルの「大きな力」が働いていることに気付かされたのです。

 

 

 その大きな力とは藤原北家」(摂関家)の存在なんです。

 

 

 この三角形を形成する残りの2つの「辺」が重なる場所には、私が思っていた通り、平安時代に清和天皇を始め4帝にわたり朝廷の実験を握り、権力を欲しいままにした「藤原基経」(ふじわらもとつね)が誓願したと伝わる「極楽寺」の大伽藍(だいがらん)が、かつて建立されていたのです。

 

 さすがは「平安新仏教集団」の頭脳!抜け目が無い。

 

 はたまた「藤原北家」の方が、「結界」の力で絶対的な権力を得るために、自ら「スポンサー」をかって出たのか。

 理由は分かりませんが、両方ともの理由が正解なんでしょう

 さすがに私も「藤原北家」が絡んでくるとは思いもよりませんでしたが。

 

 今は人影も疎らなこの地に、「極楽寺」が建立されたゆえん等については、これから今回のブログにまとめるのには、かなりの長文となることが予想されますので、次回にまた詳しくお話ししたいと思います。

 

 とにかくこの地は、現在の閑静な住宅地とは思いもよらぬ京都の重要スポットだった訳です。

 

 中途半端になってスイマセン! m(__)m

 

 

世界遺産の広報職員が教える京都「本当に癒されるパワースポットその⑧日本一のパワースポット比叡山延暦寺」

 前回「本当に癒される京都のパワースポット研究 仏の結界編~」の第1回では、自らが「死」した後も、平安京を万世にわたって護り続ける「和気清麻呂公」の墓所であり、そして、その地を託された「弘法大師空海」さん始めとした、真言宗一門が護り続けている「神護寺」の話を取り上げました。

 

 

 しかし前回の話では、まだ「仏の結界」をひとつの「点」でしか紹介出来ていないですよね。

 

 

 そんな訳で今回の「本当に癒されるパワースポット研究⑧」「仏の結界編」の第2弾は、

「日本仏教の母山」であり、私の「心の拠り所」でもある比叡山延暦寺の平安京における「三大大社の結界」と「仏の結界」の「2つの結界」を用いて

「完璧に京の鬼門を封じている」件についてお話したいと思います。

 

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昨年の秋に撮影した延暦寺総本堂根本中堂

 

 この「延暦寺」へ登叡される場合は、旧態依然のビジネスモデルを未だに引きずった、日本でも有数の高額な運搬料金を支払わなければなりません。(>_<)

 

 一般的に公共機関で登叡される場合は、JR湖西線比叡山坂本駅」で下車し、坂本の街の上り坂を20分ほどかけて「ケーブル坂本駅」まで歩きます。その後「ケーブルカー」で山上まで行き、そこから10分ほど歩きます。運賃は大人一人往復で1570円です。

 

 また、毎年3月21日から12月1日までの春から秋の間は、京都駅から三条京阪、京阪出町柳駅経由で東塔バスセンターまで行く「ドライブバス」が、毎日午前8時半から12時半まで5本運行しております。

 運賃は東塔バスセンターまで一人片道750円です。

 

 ちなみに山内に入ってからのシャトルバスは一日乗り放題で一人800円になります。

 

 車で来られる場合は、悪名高き「日本一高額料金」の比叡山・奥比叡ドライブウェイを通らないと辿り着けません。

 

 表の入口である比叡山DWを、「田の谷」ゲートから入り延暦寺まで、往復で1620円。その後西塔、横川へと回り、裏の堅田方面へとつながる奥比叡DWの仰木ゲートまで抜けると2320円、京都方面へ帰る「田の谷」の表ゲートまで戻ると何と3120円かかります。

 

 その上、延暦寺の参拝料金が大人一人550円かかります。

 

 すなわち、大人二人がデートか何かで延暦寺に登叡しようした場合、全てのお堂を見て回るのに、「ケーブル」で登って、「シャトルバス」で巡回すると5840円、京都駅から「ドライブバス」で同じコースだと4200円、お車の場合最大で4220円もかかることになります。

 

 これじゃ、なかなか気軽にお参りに来れないのが現状です。(>_<)

 

 まぁ身内の私が言うのも何なんですが、もともと日本仏教史上で初めて「山修山学」(さんしゅうさんがく)という「都から離れた山奥で政治に関わることなく、修行しながら日々都の平安を祈る」と言った,

「仏教の理想」を実践した「聖地」なので、そもそも一般人が足を踏み入れること自体が「想定外」だったんですね。

 それ程の「聖地」に、歩くこと無く「自動車」で来れるようになっただけでも…とは思いますが…

 

 まぁそれにしても「高い」ですよね。(~_~;)

 

 がしかし、これから私が提示する、延暦寺」が平安京の「鬼門」を完全に封じている「日本最大のパワースポット」たる証拠を見れば、この少々「お高い」運行コストを差し引いてでも「登叡参拝」される慶びを感じていただけると思います。

 

 と思っていただけるよう努力します。

 

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 昨年の横川中堂の紅葉。

今年の紅葉はこれ以上に赤くなると予想されています。少々「お高い」比叡山・奥比叡の両ドライブウェイですが、見に来て損はないですよ。

 

 

 「比叡山延暦寺」は、伝教大師最澄」(でんぎょうだいしさいちょう)さまがお開きになられたことは歴史の教科書や、TVの特集などでご存じの方も多いと思います。

 

 この最澄さま、子供の頃からまれに見る「天才児」で、若干19歳にして「日本で年間5人しか受からない」今でゆう「エリート官僚」(当時お坊さんになるには国の許可が必要だったので、国家公務員だったんです)になるための試験に見事合格。

 しかも、そのご尊顔は色白の女顔で、かなりの「イケメン」。その上生涯で声を荒立てて「怒った」ことが一度もないと云われるほどの「優しさ」を持つ、まさに完璧」な人物でした。

 

 欠点があるとすれば、あまりに真面目すぎること。

 

 後に最澄さんと共に「仏教界の二大巨人」となられる弘法大師「空海」さんも「ドン引き」してしまうほどの「生真面目さ」だったと云われています。

 

 

 

 さて、この最澄さまが19歳で「比叡山」に登られ、「延暦寺」当時の「比叡山寺」を開基された訳なのですが、最澄さまが比叡山に登られた一番の理由は、当時の「奈良」を拠点とした古来からの「南都仏教」には「人々を救える術がない」と減滅・失望されてとのことだったと云われています。

  

 今回は「仏の結界」を中心にお話をしているのでお寺の詳細は省かせていただきますが、

 

 当時最澄さまは、現在の延暦寺東塔東谷(とうとうひがしたに)の虚空蔵尾(こくうぞうお)という場所に「一乗止観院」(いちじょうしかんいん)という草庵を結ばれたとあります。

 

 ほとんどの書物には、この「一乗止観院」が後の「延暦寺総本堂」である「根本中堂」(こんぽんちゅうどう)になると書いてあるのですが、「延暦寺」の研究者である「延暦寺執行」(えんりゃくじしぎょう・延暦寺の実務の取り仕切りを天台座主から任された、会社でゆう社長のような役職)武覚超(たけかくちょう)師によれば、実際は最澄さまが庵を結ばれたのは、現在の「本願堂」跡(ほんがんじあと)で、「根本中堂」はその場所から、100メートルほど南にあります。

 

 当初から現在のように巨大な「根本中堂」を建築する予定などはなかったと思われますので、私は立地条件を考えて「一乗止観院」をその場所に建立した訳では無いと思うんですね。

 

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比叡山横川地域の元三大師堂です。

地面に落ちたゴミであるはずの「紅葉」に美しさを感じるのは、我々「日本人」だけでしょう。

この独特の美意識が私は大好きです。

 

 

 「延暦寺」が「京都の鬼門」を護るために建てられたといのはみなさん良くご存知だと思いますが、そもそも最澄さまは、「都の鬼門」を護るために比叡山にこもられたのでは無く、実は、ただ単にご自身の出身が山麓の坂本だからなんですね。

 

 最澄さまのご出生で伝わるのは、ご父母がなかなか子宝に恵まれないため、お父さまが比叡山麓の八王子山(はちおおじやま)にこもって己の罪を懺悔(ざんげ)し、その4日目に妊娠の兆候がみられ、お生まれになられたのが最澄さまだそうです。

 

 だから最澄さまは、その天才振りから「比叡の神の子」と呼ばれていたそうです。

 

 その後、若干19歳にして「南都の仏教では衆生を救えない」と考え、「エリート官僚への道」を捨ててまで「全ての人を救える方法がわかるまで山麓には下りない」と誓いを立て比叡山にこもられます。

 しかしこれは、決して「平安京を護る」ためにこもられたのではありません。

 

 でも結果として、この山は都の鬼門に位置しており、王城鎮護を担う寺を建立することとなる訳です。

この「因縁」を考えると、さすがに最澄さまは「比叡の神の子」と思わざる得ないですよね。(^-^)

 

 最澄さまは比叡山にこもり、モーレツに法華経(ほけきょう)の研究に勤しまれる訳ですが、そこは「嚢中の錐」(のうちゅうのきり・実力のある人は、袋の中にしまいこんでも先の尖ったキリのように突き破って頭角を表すという意味)。その天才ぶりを桓武天皇が放って置くわけがなく、天皇に直接お目見えし「加持祈祷」(かじきとう)するお坊さん「内供奉十禅師」(ないぐぶじゅうぜんじ)に任命されます。

 

 その後、前回の「神護寺編」でお話しました通り「和気広世」「真綱」兄弟の心をも鷲掴みにし、「高雄山寺の法華講経論義」(ほっけこうきょうろんぎ)をもって、最澄さまが名声を手に入れ、世に出るきっかけとなったのです。

 

 

 

 最澄さまの生まれから、青年期までをザッとお話しした訳ですが、最澄さまはその頃あたりから、この「延暦寺」が「平安京の鬼門を護っている寺」という概念が出来てきたのではないかと、私は思うわけなんです。

 

 その考えのもと、平安京の鬼門を護る「一乗止観院」、後の「根本中堂」の建立に至ったと思うのです。

 

 

 「延暦寺」が、いかに鬼門封じの中心として建立されている寺院なのかということを図で説明すると、

 

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 見て下さいこの完璧な「鬼門の結界」を。

 

 上の図の中心の「三角形の結界」は、以前に紹介した京都の2大豪族と桓武天皇が平安京を護るために創り上げた「平安京の三大大社の結界」です。

 そして、その三角形の上方を通るラインは前回紹介した「神護寺」から「上賀茂神社」、「崇導神社」、「延暦寺」へと繋がる「仏の結界」の北方を護るラインとなります。

 そして今回は、新たに図の中に、平安京の「大極殿」から延暦寺の「根本中堂」へと向かう「平安京の鬼門」を護る「斜めのライン」を入れました。

 

 この「鬼門」のラインは、比叡山上の「延暦寺根本中堂」から、現在の「京都御所」の「猿が辻」を通り、「平安京大極殿」の方向に「ピッタリ」と真っ直ぐ直線で結ばれています。

 

 しかも、このラインは「本願堂」跡から出発すると、ここまで「ピッタリ」と重なりません。

「一乗止観院」、後の「根本中堂」から出発しないと微妙にズレてきます。測量したかのように見事にはまっています。

 

 また、下の方の図はその「鬼門」のラインを拡大したものです(赤く塗ってある所が内裏跡、現在は小学校になっています)。

 

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 この拡大図を見て下さい。

 

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当時の平安京の地図

 

  このラインは見事に京都御所」の東北の鬼門「猿が辻」を通過し、「大極殿」の中でも特に重要な「天皇」が住まわれ、実際に政務を執られた「内裏」を終点とします。

 この「鬼門ライン」と「仏の結界ライン」を見るといかに「延暦寺」が都の「鬼門封じ」の役割を担っていたかひと目でおわかりでしょう。

 

 鎌倉時代後期(かまくらじだいこうき)に造営された、「里内裏」(さとだいり・天皇が内裏以外に一時的に住まわれる場所)である「京都御所」さえも、この延暦寺への「鬼門封じライン」に沿って御所の「鬼門」に当たる「猿が辻」を作りそこに比叡山麓にある「山王総本宮日吉大社」(さんのうそうほんぐうひよしたいしゃ)より「魔猿」(まさる・魔が去るとして、日吉大社の神獣とされる)を「歓請」(かんじょう)してまで「厄除け」をしています。

 

 

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京都御所の北東、いわゆる「鬼門の方角」の「猿が辻」には、塀と塀の角を意図的に「欠け」させ、その「欠け」に「魔猿」を祀る

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烏帽子を冠り、白い弊を肩に担ぐ「まさる」。役割を忘れ、夜な夜な逃げ出しては都で悪さをはたらくため、金網で囲まれてしまったらしいです(*^_^*)

 

 

 みなさんいかがですか?

 

 「延暦寺」がいかに完璧に「平安京の鬼門」を封じているか、「目で見て」理解していただけたと思います。

 

しかも単に封じているだけで無く、毎日、回峰行者を含めた相当数のお坊さんが、この「鬼門封じのライン」に沿って、京の都の平安を祈り「勤行」する訳です。

 

 1225年間、毎日欠かさずです。

 

 まさしく「完全」に「理」にかなった「日本一のパワースポット」でしよ。

 

 世の中に、有名な「パワースポット」は数多くあります。

 

 しかしその多くが、「廟」(びょう・つまりお墓とか亡くなった方の魂を慰めるために創られたもの)なり、自然崇拝の象徴となるべきものであって、「自然の地形」と「風水による人智」を「仏の力」で護るという「自然・人・仏」が融合した「パワースポット」は他に類を見ないでしょう。

 

 しかも、その「鬼門ライン」を「根本中堂」を南へ移動することにより、「完璧」なものとした最澄さまのお考えに頭が下がるばかりです。

 

 

 「比叡山延暦寺」では、昨日も、本日も、明日も未来永劫にわたりこの「平安京の鬼門封じ」ラインに沿って「国家安穏」の「祈りと修法」がなされています。特に毎月の1日には、「天台座主猊下」おん自らが山上に登叡され修法を執り行う「国祈会」(こくとうえ)が営まれています。

 

 冒頭で、延暦寺にお参りに来るのは少々「お高い」コストがかかると言いましたが、今日のお話で「延暦寺」がコストに見合う「パワースポット」だと理解していただけたなら幸甚ですね。(^-^)

 

 

 

 最後に、まとまりの悪い長文を ここまで読んでくれた方々に少しだけ参拝するのが安くなる方法を教えます。

 

車で来られる場合、ドライブウェイを奥比叡DWの「仰木ゲート」から入り、一般とは逆に横川、西塔とお参りして、西塔の駐車場に車を止め、徒歩で「浄土院」を参拝し、その後15分ほど歩く「根本中堂」へとたどり着けます。

 

 その後お参りを済ませて、再び西塔の駐車場に戻り、元きた道を引き返します。

 

 それなりに歩かないといけませんが、PCでクーポン券を印刷して使用すると通常3120円の料金が1280円になります。

 参考にしてください。

 

 

 

 

 

世界遺産の広報職員が教える京都 番外編「北嶺千日回峰行大行満大阿闍梨 酒井雄哉師を偲んで」

本日の朝刊の紙面を賑わせていましたので、ご存知の方も多いと思いますが、比叡山延暦寺の究極の荒行である「二千日回峰行」を満行された「北嶺回峰行大行満大阿闍梨 酒井雄哉」(ほくれいかいほうぎょうだいぎょうまんだいあじゃり さかいゆうさい)師が、昨日の午後ご遷化されました。 87歳でした。

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私が初めて撮らせていただいた酒井阿闍梨さまのお写真です

仕事とは別に、個人的に1枚撮らせていただきました。

 

 

 酒井阿闍梨さまは太平洋戦争時に、予科練に入隊し特攻隊へ。

 

 敵艦への特攻を目前に終戦を迎え、「死」を覚悟しながら戦友と共に死ぬことができなかった、いわゆる「特攻くずれ」として、終戦後荒んだ人生を歩まれました。

 

 その後、大坂で商売をするも失敗し、遂には奥様が「自殺」をされるという人生最悪に時期を迎えられます。

 

 思い余って大阪から歩いて旅立ち、辿りついた比叡山で、そのまま弟子入りを志願され得度。小僧生活をへて40歳で「千日回峰行」へ入行されます。

 

 

 私も39歳でお山にご縁をいただいて、行者さんたちの「修行」のお手伝いをさせていただいたりしていますが、リアルにその修行の「キツ」さを見ている私には、40歳からの「回峰行」入行なんて考えもできません。本当に「自殺行為」だと思います。40歳の体力と気力では、とてもとても成し遂げることはできないです。

 

 しかし酒井阿闍梨さまは、それを2度も満行されました。しかも1度目は住職になるために、学校に通いながら満行されたそうです。

 その行にかける信念たるや、「凄まじい」以外に言葉が浮かびません。

 

 

 私は酒井阿闍梨をかねてより「二千日回峰行」の本を読んで知ってはいましたが、お山では見かけることも無く「やっぱり生き仏さんとは中々会えないなぁ」と残念に思っていました。

 

 

 そんな時、当時の上司から「話はしてあるから顔写真を撮ってきて」と依頼されました。

 

 緊張しながら阿闍梨さんの住まわれる飯室谷(いむろだに)の長寿院(ちょうじゅいん)に向かい、玄関を叩くと、上司が時間を勘違いしていたらしく、まだお休み中に伺ってしまったらしいです。

 

 身の回りのお世話をする信者さんに、散々「イヤミ」を言われましたが、酒井阿闍梨さまは快く「構わないから上がっておいで」と優しく声をかけてくださいました。

 

 私としましては「やってしまった」気持ちで「いっぱいいっぱい」に「テンパって」しまっていましたが、「すまんな~すぐに着替えるからちょっと待っといておくれ」と、上方落語の噺家のようなテンポで話しながらお茶を入れて下さいました。

 そのお茶が絶妙に美味しかったのを今だに覚えています。その一杯で一気に緊張が解きほぐれました。

 

 お着替えされている阿闍梨さまは、背丈こそは小さいが、その下半身のしっかりしていること!

特にあの「ぶりっとしたお尻」の大きさは忘れられません。地球2周分を踏破した方の「お尻」はやっぱり常人とはぜんぜん違います。

 

 阿闍梨さまはお着替えされながらも、待っている私に気を使われて、色々なお話をしてくださいました。

その慈愛あふれるお話を直接お聞きすることができ、本当に夢のような時間でした。

 

 

 結局その日は「テンパって」しまった上に、舞い上がってしまったため、撮った写真は思いっきりグダグダで、ひと目見るなり「ボツ」にされてしまいました。

 上の写真でわかるように、下に召されているシャツが見えていることもわからないくらい緊張していました(^_^;)

 

 帰り際には、せっかく来たのに「手ぶらで帰ってはイカン!」と、お土産まで持たせてくださりました。

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その時に頂戴した阿闍梨さまの著書です。私の目の前でサインを書いてくださいました。私の宝物です。

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 たった一度だけの経験でしたが、本当に仏様に抱かれているような安心感に包まれた、幸せな時間を過ごさせていただきました。

 

 あれから2年、何とか「ボツ」にはならないような写真を撮れるようにはなりました。しかしもう阿闍梨さまのお写真を撮れないのは少し寂しい気がします。

 

 これからも、阿闍梨さまの愛した「比叡山延暦寺」の記録を許される限り撮り続けて行きたいです。

 

波乱万丈な今世を送られましたが、来世はゆっくりとした一生をお過ごしになられる事をお祈りします。

 

 

世界遺産の広報職員が教える京都「本当に癒されるパワースポットその⑦「仏の結界と神護寺」

 さて、「京都のパワースポット研究」も平安京造営に至るまでの「結界」の創作で、私の考えは一通り話させていただきましたので、今回からは、平安京に遷都された後、京の都の「王城鎮護」をより一層確固たるものにするため施された「新たな結界」を紹介していきたいと思います。

 

 

 平安京を造立するに当たって桓武天皇は、先史より山背の地に鎮座される2大豪族の産土神の持つ「パワー」に「将軍塚パワー」を付加させ、「山背」を「山城の地」と名前を変えてしまうことで、

都に「三大大社の三角結界」

を張り巡らし、悪しき「気」を祓うことで都の平安を祈るシステムを構築されたことは、前回まででお話をさせていただいた通りですが、これらの手法は、都を造営するに当たっての前処置のようなものだったと私は考えるんです。

 

 私の考えでは、桓武天皇は平安京への遷都後、次なる手段を用いて都の今後の安定と永遠の王城鎮護を望むことになります。

 

 そのための手段となったのが、当時の「新興勢力」である「仏教の集団」の活用でした。

 

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神護寺の本堂である「金堂」

ご本尊の「薬師如来」さまは国宝で、拝観料は大人500円子供200円です。

 

 

 

 そこで今回からの

「本当に癒されるパワースポット研究」

 

「京を護る仏の結界」

と題して、第一回は「高雄山神護寺(たかおさんじんごじ)のお話をしていきたいと思います。

 

 京都を護るお寺と言えば、京の「鬼門」を護る「延暦寺」(えんりゃくじ)やろうがワレ! ( *`ω´)プンプン

 

 と、おっしゃる方も多いでしょうが、もちろんその通りですし、私ほどの「お山大好き人間」が延暦寺を第1回目に取り上げないのはおかしいですよね。

 

 しかも「神護寺」は現在、延暦寺を開創された伝教大師最澄(でんぎょうだいしさいちょう)さまの双璧のライバルと云われる弘法大師空海(こうぼうだいしくうかい)さんの開宗された「真言宗」(しんごんしゅう)に所属する真言寺院のうえ、最愛の弟子「泰範」(たいはん)を取られた場所だったりと、延暦寺を開かれた最澄さまにとっては、とかく因縁の場所ときたもんなんですね。

 

 しかし悲しいことに、物事には順序というものがあるんですね。

よって、まずはこの「神護寺」を抑えとかないと色々これからの説明も難しくなってしまうんです。

 

 だから第1回目はバリバリの「天台宗徒」の私が、涙を飲み「真言宗遺迹本山神護寺」(しんごんしゅうゆいせきほんざんじんごじ・空海さんと特にご縁の深い寺院を遺迹と呼ぶらしい)が「パワースポット」たるゆえんを紹介していきたいと思います。

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神護寺の山門へと続く石段の入口 

 

 神護寺は京都市右京区愛宕山の麓、清滝川の流れる「京の奥座敷」つまり山奥にありますので、マイカーか「JRバス」でしか行くことができません。

 

 しかしバスで行かれる場合でも、京都駅より午前7時から午後8時近くまで、一時間に2本ほど運行しておりますので、よっぽどの時間に行かない限りはまず安心です。バス停は「山城高雄」でも、もう2つ先の「栂の尾」(つがのお)でも下車後約10分ぐらいで山門へと続く石段に辿り着くことができますが、私のお勧めは坂道が若干緩い「栂の尾」のバス停です。

 

 マイカーの場合は、国道162を「神護寺前」道路標識から小道に入り、「清滝川」のすぐそばまで下りてくると、各旅館が営む「駐車場」が結構あります。料金は本日は「1日500円」でしたが、「紅葉」のシーズンになるともっとボルかもしれませんね。

 

 近くに市営の「高山寺無料駐車場」がありますが、そこから石段の入口までは歩いて約15分ほどかかります。15分間を500円で買うのもありですが、清滝川沿いの道沿いを歩くのはとても涼しくて気持ち良いですよ。参考にしてください。

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 石段を15分ほど登ると勇壮な「山門」が姿を現します。

よく他のブログ等で「急な石段」と表現されていますが、しんどいのは最初の急な階段だけなので安心してください。2回曲がり角を折れると「山門」は見えますよ(^O^)

ただし、かかとの高い「ヒール」などは厳禁です

 

 

 ここからウンチクが始まります。

 

 さて、「神護寺」が開かれたゆえんですが、歴史の教科書を読んでいると、平安京に都の遷都を勧めた「和気清麻呂」は、世に云う「宇佐八幡の神託事件」で、「道鏡」の天皇即位を知り退ける「神託」を「八幡大神」より賜りましたが、

 実はもう一つ、「一切経(いっさいきょう・全てのお経)を書写し、仏像を造立して寺を建て、万世にいたるまでの国家の安定を祈りなさい」という神託をも賜ったと云われています。

 

 その「神託」を実践するため「清麻呂」は、「神願寺」(じんがんじ)を建立します(場所ははっきりとわかってはいません)。そしてその長男である「和家弘世」(わけのひろよ)も父の意思を受け継ぎ、都の西北に「高雄山寺」(たかおさんじ)を開基します。

 

 この「高雄山寺」の場所もよくわかっていないのですが、開祖である父の「清麻呂公」の墓所が神護寺の中にあるので、「高雄山寺」は今の「神護寺」ではなかったのではないかと云われていますし、「神護寺」のパンフレットには、「高雄山寺」は「神護寺」であると、はっきり書かれています。

 

「弘世」は、亡き父に「宇佐八幡」の神託を託した伯母の「和家広虫」(わけのひろむし・本来は広虫が出向く予定だったが、健康の不調を理由に弟の清麻呂に譲ったと云われる)の三回忌に「高雄山寺」において「法華経」の講経論義を執り行いますが、それを機会に一人の天才青年僧侶が世に出現することになります。

 

 

 そのお方こそ、日本仏教の母山「比叡山延暦寺」を開山された、伝教大師最澄」さまです。

 

 

 そこからトントン拍子に出世街道をひた走り、国費で「唐へ留学」された最澄さまは、当時私費で「唐への留学」を果たした弘法大師「空海」さんの類まれな才能を見出し、空海さんが「唐」の留学から日本へ帰ってきた後、ちゃんと生活が営めるように「和気弘世」にとりなしてあげ、この「高雄山寺」に住めるようにしてあげます。

 

 そしてこの「高雄山寺」を基点として、空海さんも日本にはなくてはならない「密教」伝播者としての道をひた走って行く訳です。

 そして822年に最澄さまが亡くなった後の824年には、この「高雄山寺」と「神願寺」を合併し、「神護寺」を真言宗のお寺とすることになります。

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五大力堂から石段と金堂を望む

 

 と、ここまでが一般的な「神護寺」開基の流れなんですが、とにかくこのお寺の凄い所は、「八幡大神」の信託で京の都を護る寺を建立した「和気清麻呂」と、仏教史上の二大巨人である「最澄」さまと「空海」さんという平安初期のビッグネーム3名が深く深く関わっているという「歴史マニア垂涎」のお寺なんですよ。

 

 しかし、これだけの「天才」が3名も揃って、こんな山奥に「全く何の意味を持たない」お寺を建立するでしょうか?

 

 ここから話の本番なので戻って来てください。

 

 

 私には、この3名が仏の力で、京に平安のパワーを与える「仏の結界」を作ろうとしたに違い無いと思いました。その足がかりとして選ばれたのが、「高雄山寺」であり「神護寺」だったと思うんです。

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いつも見えにくい地図でスイマセン(^_^;)

 

 上の京都市北部の地図を見てもらうと、高雄山の「神護寺」と比叡山の「延暦寺」の間には平安京の北部がすっぽりと収まり、

その両方を結んだラインには、「賀茂氏」の氏神で厄除けの神様「賀茂別雷大神」を祀る上賀茂神社の真上を見事に通ります。

 さらに、有名な「怨霊の神様」早良親王(さわらしんのう・桓武天皇の弟で死後に崇道天皇謚号がおくられる)を祀る「崇道神社」まで、そのラインの真下に鎮座されています。

 

 この位置関係こそ、「和気清麻呂」がこの地に「高雄山寺」を建立し、「空海」さんが住まい「遺迹本山」とした一番の理由ではないでしょうか。

 

 その証拠として、「神護寺」の「勅使門」には5本筋の線が入っております。この「定規筋」(じょうきすじ)は、皇室にゆかりの深い寺社のみ許される「筋」で、特に5本は最上級とされています。 

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神護寺書院の壁は、勅使門のみ「5本筋」で周りの壁は「3本筋」という変わった「定規筋」です

 

 本来この「定規筋」は、「御所」や「門跡寺院」などをあらわすもので、貫主が皇族でない神護寺に許されるのは非常に珍しくないですか?

 

 そして一番重要なのは、「清麻呂公」の墓所の存在です。

 

 私は、直接「清麻呂公」の墓所に参拝させていただきましたが、その場所へは、「金堂」の裏手から山の奥へ10分ほど歩かなければなりません。

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 鬱蒼とした森にひっそり佇む清麻呂公の墓所

 

 お坊さんにより掃き清めてはありましたけども、「鬱蒼とした森」の中、平安京遷都の一番の功労者であり、造営の最高責任者であった「清麻呂公」の墓所としては、適所とは口が裂けても言えないような場所に葬られておられます。

 これではあんまりですわ( ̄^ ̄)

 

 お堂や祠もなく、こんもりと土が盛られた塚に「石碑」がポツリ。

 

 これってまるで「将軍塚」やなぁ。 

 

 あっ!「将軍塚」! そこで気づいたんです。

 

 

 そうなんです将軍塚を造られた「清麻呂公」は、死して万世自らが平安京を護る「仏法の将軍塚」となられたのです。

 

 私は、おもむろにスマホの「コンパスアプリ」を起動させ、この「塚」の向いている方向を測定しました。

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枝が垣根のようになり、写真では墓石が見えにくいですが、正面は南南東の方向へと向いています(写真の下のコンパスの赤い目印は北を示しています)。

 

 「神護寺」の堂宇はその全てが南の方向を向いています。しかし「清麻呂公」の墓石だけは、南東にある京の都の方向を見つめています。これは、「将軍塚」を建てた「清麻呂公」が「八幡大神」の神託に従い、自らが平安京の鎮護を司る「将軍像」となり、神から託された「万世までの平安」を実践された遺跡ではないでしょうか。

 

 もしそうだとしたら、自らの墓所をこんな山奥に作り、その後、平安仏教の巨人の双璧である「空海」さんが「神護寺」を「真言密教」の「遺迹本山」とした理由など、全てにおいて合点がいきます。

 

 これはきっと最澄さまが、「延暦寺」と共に平安京の王城鎮護の寺とするために、その才能を見初めた空海さんを和気氏に紹介し、「神護寺」を彼に託すことによって、「延暦寺」と「神護寺」とで清麻呂公が実践しようとした「仏の結界」を創ったんではないかと思うんです。

 

 そうだとすると、「勅使門」の「定規筋」の疑問も全て解決できるのではないでしょうか。

 

 

 

 こらから、秋の「紅葉」のシーズンを迎えます。

 

 恐ろしいほどの人たちがこの地に「紅葉刈り」に訪れると思います。しかし、その内の何人がさらに山の奥まで足を伸ばし「清麻呂公」の墓所を参られるでしょうか?

 

 私が推測するに、この「清麻呂公」の墓所は、京都でも指折りの「パワースポット」に間違いないでしょう。

死して今もなお「万世にわたり平安の都」を護り続けておられると考えられるからです。

 

 みなさんが「紅葉刈り」に訪れられた際には、ぜひ「清麻呂公」の墓所まで足を運んでいただき、手を合わせて「感謝の誠」を捧げていただきたいものですね。

 

世界遺産の広報職員が教える京都「本当に癒されるパワースポットその⑥三角結界と桓武天皇の将軍塚」

この度の、台風18号上陸により被害にあわれた方々に、心からお見舞い申し上げます。

 

 今回の台風上陸では、京都市内において、あれほどの水害にも関わらず、只の一人の命も失われませんでした。

 この件に対し、行政及び、夜通し警戒に当たられた警察官の方々、並びに関係各所の皆さま方の使命感に溢れたご尽力に、心から感謝申しあげます。

 

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41年間の人生のなかで、氾濫寸前の鴨川を始めて目の当たりにしました。

 

 

 さて、話を本題に。

 台風が上陸する前々日、私は休みだったので、午前中の気温の上がり方に少々暑さが気になりながらも、取りあえずチャリンコに乗って家を飛び出しました。

 

 最初に向かったのは、前回の「京都三大大社の三角結界」の時に出てきた、平安京の「中心部」であり、最も重要な施設「大極殿」(だいごくでん)跡地。現在は千本丸太町の交差点からすぐ北西にある公園内に石碑があり、そのすぐ前方には、近辺の復元予想画が描かれていました。

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当時の栄華の面影は一切無く、物静かに石碑だけが歴史を物語っていました。

 

 

 その後上昇する気温に反し、私は京都市東山区の東山山頂にある「将軍塚」へと向かいました。

 

 

 この将軍塚は、桓武天皇が平安京の造営時、都を鎮める王城鎮護(おうじょうちんご)のため、八尺(約2.5m)の土を焼き上げ、初代将軍(当時は、東北地方の朝廷に従わない勢力を征伐する軍隊の幕僚長)「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)をモチーフした陶質でできた将軍像を作り、その像に鉄の甲冑を着せ、鉄の弓矢を持たせ、太刀を佩かせて都のある西方に向けて埋めた所だと伝わる場所です。

 

 場所は、京都市東山区粟田口の東山山頂で、標高215m。ふもとには「青蓮院」(しょうれんいん)や「知恩院」(ちおんいん)があり、現在は天台宗の寺院「青蓮院」の飛び地境内に中にあります。

 

 この将軍塚へ行くには、自動車で行くか、徒歩で自動車道または東海自然道を登るしかありません。また、公共機関も乗り入れておりませんので、マイカーの方以外は、タクシーで行くしか方法はありません。自動車なら蹴上または東山五条から東山ドライブウエイ(無料です)へ入ると、ほぼ頂上部にある山頂公園に駐車場があり、その奥に進むと青蓮院別院「大日堂」の境内地があります。

 

 なぜ、わざわざこんな不便な場所へ? と思いますよね。

 

 最近の運動不足解消のための「チャリンコトレーニング」と言いたいところなんですが…(^_^;)

 

まっ、それも兼ねておりますが、前回までの「三角結界」にこの将軍塚も重要な関係があるからなのです。

 そのために、重い撮影機材を背負い、東山ドライブウェイをチャリンコで30分かけてひた登りました。

 

という訳で、今回の「本物のパワースポット巡り」第5弾は

「三角結界の補足」と題し、

なぜ桓武天皇「将軍塚」をこの地に選んだのか?

をお話したいと思います。

 

 しばらく、恒例のウンチクが始まりますので、興味の無い方は、この部分を飛ばしていただいても結構ですよ。

(^ ^)

 

 この「青蓮院」は、正式な名称を「青蓮院門跡」(しょうれんいんもんぜき)といい、天台宗の総本山比叡山延暦寺に次ぐ最高位の寺院「五箇室門跡」(ごかむろもんぜき)の中でも特に格式の高い「三門跡」の一つです。

 また、現在の天台宗門跡寺院の中でも唯一住職である「門主」(もんす)が「世襲」により引き継がれている寺院です。ちなみに先代のご門主の「東伏見慈洽」(ひがしふしみじこう)大僧正は、今上天皇と「いとこ」の関係です。

 

 この青蓮院については、天台寺院であり私の専門分野なので、機会を伺ってまた詳しく紹介したいと思います。

 

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東山ドライブウエイの山頂、将軍塚のとなりにある展望台から京都を望む

 

 一般的にこの将軍塚が造立された理由としては、桓武天皇が都を平城京(奈良)から京都の南部の乙訓(長岡京)へ移す造営中、次々と災難が起きたからだそうです。

 

、天皇の血縁に近い親族のあいだに不幸が続いたり、さらに伊勢神宮の正殿などが盗賊に放火され、また、畿内に疫病が蔓延し多くの人々が亡くなるなどの異変が起こったそうで、桓武天皇はこのままこの地で都の造営を続けるべきか?と非常に悩んでおられたそうです。

 

 その気持ちを察した重臣「和気清麻呂」(わけのきよまろ)は、狩を口実に天皇をこの東山山頂(現在の将軍塚)に誘い、山背(京都)盆地を見下ろしながら、新しい都はここに定めるのがよいと進言しました。

 天皇は、下界をご覧になって、この盆地は周囲三方が山に囲まれていて、大きな川(加茂川や桂川、宇治川)も流れている。それを城壁やお堀とみなし、都を造るには最適と考えられ『此の国、山河襟帯、自然に城を作(な)す、この形勝により・・・(中略)山背国を改め、山城国となすべし』都を定める決心を伝え、延暦13年(794)平安京造営に始められたと云われています。

 

 

 ウンチクを飛ばした方は、ここからお読みください。

 

 

 と、この内容が教科書や歴史書に載っている代表な「将軍塚」がこの地に置かれたゆかりなのですが、私にはどうもそれ以上の「パワー」を期待して、桓武天皇が、この地に「将軍塚」を造立したとしか思えません。なぜなら別にこの地に「塚」を置かなくても、京を一望に見下ろせる地点は他にたくさんあるからです。

 

 例えば、京都在住の方ならよくわかると思いますが、「大文字山」として有名な「如意ヶ嶽」(にょいがだけ)なんて、将軍塚よりよっぽど京都全体の景色が素晴らしく良く見えます。おそらく京都を一望するに一番ふさわしい山頂で、私が平安京の「プレゼン」をするなら間違いなく「大文字山」選び進めますよ。

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3年前に大文字山に登った時の写真です。前出の「東山山頂展望台」より遥かに眺めがいいでしょう。

 

 

 そんな疑問を考えている時に、この位置関係を例の「三角結界」の地図を当てはめると、私はまた不思議な偶然を見つけてしまったのです。

 

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 図を見てもらえばお分かりの通り、この「将軍塚」は、「下鴨神社」から「伏見稲荷大社」まで引かれたライン上のちょうど中心の所に位置しています。

 

 また、京都の横の中心ラインの「四条通り」を通り、まっすぐ「松尾大社」まで繋がっているのもお分かりになるでしょうか?

 

 はたまたこれも偶然の一致なのでしょうか?

 

 私には、そのうちお話しますが、もう一つ偶然とは思えない「結界のライン」の存在を既に確認しています。そんなことから考えると、これはもう意図的に造られた平安京を鎮護する「結界」としか他に言いようがないと思います。

 

 私の想像では、桓武天皇は「四神相応」で王城鎮護すると共に、この京都の二大豪族である「秦氏」と「賀茂氏」が張り巡らした「三角結界」。そのまた上に、今度は、天下の怪僧「道鏡禅師」より「天皇」の「万系一世」を身を呈し護った「和気氏」の結界まで駆使し、都の平安を祈ったのではないでしょうか?

 

 ちなみに、「和気清麻呂」が宇佐八幡より受けた「神託」は実は二つあり、一つは有名な「臣下(道鏡)を天皇に即位させてはならない」と、あともう一つは「朝廷を必ず護り続けなさい」という神託だったと云われています。

 それを考えても、「清麻呂」が既にある「三角結界」の一地点に「将軍塚」を創ったとしても不思議ではないですよね。

 

 

 まぁそれにしても本当に京都は、徹底的に計算され尽くして造営された平安の都だと思いますね。何気ない山頂にまで「パワースポット」が仕掛けられていますからねぇ。

 

 ちなみに炎天下の中、将軍塚の写真を撮ろうとチャリンコで死ぬ思いで登った結果は…

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 庭園整備で1年間の閉園となっていました( ̄◇ ̄;)

皆さんに「将軍塚」の画像をお届けできなかったのが誠に残念です。

 

世界遺産の広報職員が教える京都「本当に癒されるパワースポットその⑤石清水八幡宮」

 昨日の9月15日は、八幡市にある「石清水八幡宮」(いわしみずはちまんぐう)の大例祭「石清水祭」の日。

 

 この「石清水祭」は、上賀茂・下鴨両神社の「葵祭」(あおいまつり)・奈良の春日大社の「春日祭」(かすがさい)とともに、皇室から勅使が遣わされる日本三大勅祭の一つとして有名です。かつては毎年旧暦の8月15日に行われていましたが、明治17年(1884年)よりは、新暦に換算し9月15日に行われています。

 

 今日は台風が接近する中行われた

石清水八幡宮の「石清水祭」に行ってきましたので、

今回の「本物のパワースポット巡り」第5弾は、「神」と「仏」の本来の形「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)についてレポートしたいと思います。

 

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天下第二の宗廟(そうびょう)にふさわしい、皇祖「応神天皇」をお祀りする荘厳な石清水八幡宮の本殿。

 

 

 ここからはいつものウンチクが始まります。

 

 この「石清水八幡宮」は平安京の裏鬼門に当たり、開山当初は表の「比叡山延暦寺」に対し、延暦寺から分裂した「三井寺」の天台寺門派がこの男山に石清水寺を建立し、「裏の鬼門」として「王城鎮護」(おうじょうちんご)の祈願寺としての役割を果たしていました。

 

 清和天皇の貞観元(859)年、南都の僧・行教和尚が大分県の宇佐八幡宮にこもり、日夜熱祷を捧げ、八幡大神様の「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣をたまわったことから、同年男山の峯に御神霊を御奉安申し上げたのが「石清水八幡宮」の起源と云われています。

 そして朝廷は翌貞観2(860)年、同所に八幡造(はちまんづくり)の社殿(六宇の宝殿[ろくうのほうでん])を造営し、4月3日に御遷座されたそうです。

 

 主祭神は御本殿中央に第15代「応神天皇」(おうじんてんのう)祀ります。この天皇が歴史上実在が確定している最古の天皇と云われています。また、西に「比咩大神」(ひめおおかみ)、東に「神功皇后」(じんぐうこうごう)の三柱が祀られており、この御本殿に鎮まる三座の神々を総称して「八幡大神」(はちまんおおかみ)と呼ばれています。

 

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頓宮から山頂まで続く石製の階段の参道を20分ほど登ると、石畳と緑の中に朱が映える楼門が見えてきます。

 

 天慶2(939)年に起こった平将門藤原純友の乱の折には、朝廷よりこの八幡大神に請願があり御神威をもって速やかに平定されて以来、国家鎮護の社として皇室の御崇敬は益々厚いものとなりました。その後、天皇の行幸や上皇の御幸は、第64代円融天皇行幸以来、実に240余度にも及び、伊勢の神宮に次ぐ「天下第二の宗廟」とも称されています。

 

 ちなみにこの「男山」は国家に大きな異変があるときには山全体が「轟く」らしいです。

 

 

 また、「石清水祭」に始まりは、「石清水八幡宮」のHPによると、

 

 「清和天皇の時代の貞観5(863)年、旧暦の8月15日に八幡大神様が男山の裾を流れる放生川のほとりにお臨みになって生ける魚鳥を放ち「生きとし生けるもの」の平安と幸福を願う祭儀として始められました」。

 

と書いてあります。

 

 しかし、このお祭りのメインの祭典である、「生きとし生けるもの」に感謝し魚や鳥を放つ「放生会」(ほうじょうえ)は、「仏教」の考え方が繁栄された「仏教の行事」で、「神道」には、本来こういう行事はないんです。

 

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本年地元の子供たちによって執り行われた「放生会」の様子

 

 ウンチクも終わりましたのでこの辺から再びお読みください。

 

 

 今でこそ日本では、「神」と「仏」が別の存在として考えられていますが、これは「明治時代」になり「神仏分離令」により、政治的に無理やり分けられてしまった結果のせいで、本来の日本人の自然に対する考え方や、はたまた日々の生活習慣の隅々にわたるまで、「神」と「仏」が一緒になった「神仏習合」の形が今でもしっかり息づいています。

 

 よく「日本人」の宗教観は、「結婚式は神社で行い、葬式は寺で行う」と例えられて、ポリシーの無いてんでバラバラな宗教観を持つ民族と思われがちなのですが、明治以前は「神社」と「寺院」、「神」と「仏」は同じものだと考えられていたので、実は全然バラバラなことではないんですね、思ったより最近の考え方なんですね。

 

 

 時代が明治を迎え、天皇の絶対的な「神格化」をアピールするために、新政府はこの「神仏分離令」を実施したことと思いますが、今となっては逆に、色々不都合な面のほうが多いんですよ。(^_^;)

 

 その代表的なものが、この「石清水八幡宮」のお祭りですね。

 

 古来より神仏習合の「放生会」として執り行われていたものなのが、明治以降政治的に振り回されて、何と神道には無い「仏事」にかかわらず、無理やり「神事」として執り行わざる負えなくなってしまったんです。

 

 しかも、「石清水」という名前は、大分県の「宇佐八幡宮」から「八幡宮」が勧請される以前からこの「男山」にあった天台宗の寺院の名称をそのまま踏襲しているため、神社の名前も明治時代には「男山八幡宮」と改めさせられたそうです。

 祭りの名称も明治以前はそのまま「放生会」だったのですが、現在では「石清水祭」と名称を変えているんです。何とめんどクサイで事でしょう( ̄◇ ̄;)

 

 しかしここ最近の流れのなかで、「日本古来からある宗教観が、政治に振り回されるのは良くない」という思いから「神仏習合」への回帰の活動が、活発になって来ています。

 

 この「石清水祭」でも、おととしの平成23年に「東日本大震災から一日も早い復興の祈願」という理由から、比叡山延暦寺の僧侶が出仕し、合同で法要を執り行い、約140年振りに本来の神仏習合の形で「放生会」が執り行われるとなりました。

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法要のため頓宮に入る延暦寺の出仕僧侶たち

 

 私が思うに、現在の若者の「宗教離れ」の一番の原因はこの「神仏分離令」にあると思うんです。

 

 皆さんおそらく、「神道」や「神社」は日本古来の自然崇拝として身についており、宗教的な感覚をあまり持た無いと思うのですが、「仏教」と聞くと、なんかとたんに「宗教」という色が強くなって来ますよね。

 

 しかしこれは先ほども言いましたが、明治新政府」が作った「イメージ戦略」なんです。

 日本人は本来は、古来より「神」と「仏」は同じものとして考えているのです。

場所によっては、「仏様が神様に姿を変えて日本をお創りになった」という「本地垂迹」(ほんじすいじゃく)の考え方を今だに持っていいる地域もあります。

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参道を登りきると楼門がそびえ立つ。

「源平の合戦」の屋島の戦いにおいて、源氏の若武者「那須与一」(なすのよいち)が「鏑矢」を放つ時、「八幡大神」と仏教の「菩薩」を同一視し「南無八幡大菩薩」と唱えたと云われます。

 この一説からも人々の信仰のなかに、「神仏習合」の考えがあったことを感じられますよね。

 

 

 このように、仏教の伝来以来1000年以上にわたり、私たちのご先祖さまの生活に溶け込んできた信仰の形が、たった150年くらい前にいきなり政治的に別けられてしまいました。

 私は今頃になってこの「しわ寄せ」が、若者の宗教離れとして現れているのではないかと考えるのですね。

 

 憲法上「政教分離」の原則がありますので、詳しいことは興味を持った人達が学んでいけばいいと思いますが、

 

 せめて学校の授業で、明治時代以降の「神仏分離令」により、「神」と「仏」は別けられてしまったのであって、本来の日本人の生活の中には「神仏習合」という、「神」と「仏」は同ものとして溶け込んでいる」

ということだけでも教えることができると、若者たちも「宗教」や「お寺」について、もう少し違った形でアプローチできるのではないかなぁと思います。

 

何とか教化していきたいものですね。

 

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本殿での参拝を終え参道を戻ると、山麓には越天楽の音色が響き、「頓宮」で「舞」が奉納されていました。

 

 

  石清水八幡宮へは、京阪電車「八幡市駅」で下車後すぐに参道の鳥居が見えます。

 同じく「八幡市駅」に隣接して、結構大きい目の「市営駐車所」がありますので、車で出かけても安心ですね。駐車料金は、1時間で200円やったと思います。

 

 「八幡宮」の表正面「一の鳥居」から、山頂の本殿までは私の足で約20分ほどかかりましたから、普通に30分もあれば山頂まで拝登することができます。 駅から「ケーブルカー」も出ておりますが、せっかく「パワー」をいただきに来たのですから、散歩がてらに歩いて登っていただきたいものです。

 

 山頂に向かい歩き出すと、本殿を含む全摂社が「男山」の山内に点在しておりますので、他の「大社」の豪華さに比べると神域が「かなり地味」な印象を受けます。

 しかし山頂までの参道には、すべて「石畳」がビシッと敷き詰められおり、しかも掃き清められております。

この神社は「武神」の名が表す通り、女性的な「美さ」はありませんが、一見地味だが「質実剛健」で、「スーツの裏地にこだわる男」ような「ダンディズム」が溢れる神社でした。

 

 台風による雨が一瞬だけ止んだ晴れ間に、森の自然と石畳がキラキラと光り、癒された時間でした。(^-^)

 

世界遺産の広報職員が教える京都「本当に癒されるパワースポットその④京都三大大社の三角結界」

この度の東京オリンピック開催決定、誠におめでとうございます。

また、今回のオリンピック誘致の実現に向け、尽力を注がれた関係者の皆さんへ、心よりお祝い申し上げます。

o(^▽^)o 

 2020年、私は48歳を迎えていますが、ぜひこの目でトップアスリートたちの競演を見てみたいものですね。

 

 

 さて、前回までの話で、「下賀茂神社」、「松尾大社」、「伏見稲荷大社」の鎮座されている位置関係に、「奇妙な共通点」が見られると気が付いた訳ですが、

 

今回の

「本物のパワースポット巡り」第4弾は

「京都三大大社の三角結界」

と題して、その理由について説明したいと思います。

 

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平安京の正面玄関であった羅城門があったと云われる跡地。

東寺から九条通りを西に約5分ほど歩いたところにある。

 

 

 私は約3年前、暇を見つけては、京都のパワースポット巡りを続けており、一度訪れた場所を記録するために一枚の地図を購入し、参拝後にはわかりやすいように「赤ペン」で印を付けていました。

 

 ある日、今後の予定を立てようと地図とにらめっこをしていると、「下鴨神社」と「松尾大社」と「伏見稲荷」の京都最古にして最重要な3社の位置関係が妙に気になりました。

 私はおもむろに定規を取り出して、この3つの社を直線で結んでみると、何と、この3社の位置関係は、偶然にもほぼ正確な三角形を描くことに気がつきました。

 

 「面白い偶然もあるもんやなぁ~」としばらく関心していましたが、これは本当に偶然の産物なのでしょうか?

 地図上で京都の中心部、後に平安京となる部分がピッタリと、またすっぽりとこの三角形の中にはまりこんでしまいますが、これもたまたまなのでしょうか?と考えるようになりました。

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Googleマップで図を作って取り込んでみました。見えにくいと思いますが…

すいません(^_^;)

 

 

 地図を見て頂ければとお分かりかと思いますが、三角形の内側には、天皇がお住まいになり、実際に政務をお執りになる「大極殿」、そして京の正面玄関口のランドマークである「羅城門」、その間を縦に走り京都の中央本通りを担う「朱雀大路」が丸ごと中央に収まります。

 

 

 じっくりと地図を見ていた私の脳裏には、その時、前回の「伏見稲荷大社編」の時に思いついた疑問が「ふっ!」と浮かび上がって来たのでした。

 

 詳しいことは、前回のブログを読み返していただけるとありがたいのですが…(^_^;

 

 とにかく私は以前から、この「伏見稲荷大社」に鎮座される主祭神の縁起の希薄さと、社殿の鎮座位置に対し、ほのかな疑問を抱き続けていました。

 

 そこで私が考えたのは

伏見稲荷大社は何らかの意図を持って創建された神社ではないか?

という事でした。

 

 この「伏見稲荷大社」は、他の二社に対し後から創建されています。

しかも、「伏見稲荷大社」は、「松尾大社」を創建した「秦都理」(はたのとり)と兄弟で「賀茂氏」より「養子縁組」で秦氏となった「秦伊呂倶」(はたのいろく)のよくわからない伝説により創建されています。

 

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賀茂氏の氏神「賀茂建角身命」(かもたけつぬみのみこと)を祀る「賀茂御祖神社」こと「下鴨神社

 

 

 このことから私は、秦氏」と「賀茂氏」の京都を二分する大豪族が互いに手を結び、自らの支配する地域の平安を願うため、以前より風水や地勢学の「四神相応」により護られていた「山城の国」の三方向に自らの祖神を配置し、より一層堅固な結界を造ったのではないか?と、推測しました。

 そのために、選ばれたのが「伏見稲荷大社」が鎮座する「稲荷山」ではないか?と思うようになりました。

 

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秦氏の氏神「大山咋神」(おおやまくいのかみ)を祀る「松尾大社」

 

 

 また「秦氏」は、後に桓武天皇による平安京造営の大スポンサーともなっています。

 

 この事柄を考えると、もともと結界を造るために創建し氏神を祀った「伏見稲荷大社」に、平安京の誘致に伴い大和朝廷と手を結ぶため、朝廷の大神「豊受大神」を祀り、「三角結界」の三点を活用し、その一点に朝廷の祖神を加えることで、京の平安を保とうとしたとするならば、私が思っている「伏見稲荷大社」に鎮座する神様の奇妙な違和感にも納得がいきます。

 

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賀茂氏から養子に入った秦氏が大和朝廷の伊勢神宮「外宮」の神「豊受大神」(とようけのかみ)と同一神の「宇迦之御魂大神 」(うかのみたまのおおかみ)を祀る「伏見稲荷大社

 

 

 また、平安京の羅城門や大極殿などの中心を担う建造物が結界がおりなす三角形の中心部に配置されているのにも納得がいきませんか?

 

 細かい事柄を学者さんたちに突っ込まれると太刀打ちできないかもしれませんが、この「結界」は、偶然というには不可解すぎます。

 とにかく私はこの平安京の「四神相応」に、「三大大社の三角結界」が持つ、「大いなる霊力」を含めた巨大なパワースポットの存在に「わくわく」してきました。

 それからというもの、私の「パワースポット巡り」はこの「三大大社の三角結界」を中心に巡る事となったのです。

 

 そうしているうち、この「三大大社」の他にも、京都には至る所で、寺社仏閣の持つ、「霊力」を巧みに配置した結界が引かれていることに気がつきました。

 私は「平安京を1200年以上にわたり護り続けるこれらの「結界」に「霊的なパワー」が宿らないはずがない」と思い、この「三角結界」を基準に、京都のあらゆる「パワースポット」を巡礼するようになりました。

 

 今後もこの「三角結界」に関係するパワースポットを、どんどん紹介していきたいと思いますので楽しみにしてくださいね。

(^∇^)V